①志村正彦がいなくなった日



フジファブリックの志村正彦(以下、志村と書きます。呼び捨てでごめんなさい。)が亡くなったのは、2009年の12月24日だった。
僕はその日、予備校で迫り来る大学の入試試験の勉強していた。
日が暮れるのも早くて、窓の外はすでに真っ暗だったのを思い出す。


友人からのメールで、携帯のバイブが震えて、
何気なくそれを開くと、
「志村死んだらしいぞ!」と短く書いてあった。
すぐにネットニュースを確認すると、それが事実であることが分かった。


②2009年のフジファブリック



今や邦楽ロックでもベラランの部類に入るフジファブリックであるが、
2009年はまだまだこれから売れていくと言う様なバンドたった。邦楽ロックが好きと言う十代は必ずと言っても差し支えのないくらい皆んな聴いていた。






ライブでは、皆んな大名曲「銀河」に合わせて、バカみたいに踊っていた。
カラオケでも歌ってるやつが(少なくとも僕の周りには)沢山いた。
3rdアルバム「TEENAGER」が発売されると、皆んな次は「若者のすべて」を聴き、そしてまたいつかと同じ様に、カラオケでデカイ声で歌っていた。



僕は一回だけ、ライブに行ったことがあって、
それは「TEENAGER」のツアーの時だった。
彼らに対してのイメージは文系の、線の細い人たちだった。
だからライブでの志村の激しいパフォーマンスには面食らった覚えがある。
当時から「ロックとは〜」とか語っちゃう、面倒くさいロック好きだった僕だけど、
ライブ後に「フジファブリックは本物のロックバンド」と友人に話していたのを覚えている。
本物のロックが何なのかなんて、当時は分かった振りをしていただけで、何にも分かっちゃいなかった。
少なくとも彼らはとんでもなくカッコ良かった。それが本当のところ。



志村が亡くなってから、僕はフジファブリックを聴かなくなった。
村上春樹は確か「ディランもレノンも、ジム・モリソン(ドアーズ)の代わりにはなれなかった」ということを書いていたが、
この文章はそのまま志村正彦にも当てはまる。
高校生の僕は、彼の代わりが必要なのか、よく分からなかった。


③2019年のフジファブリック



あれから、丁度10年。
フジファブリックがミュージックステーションに出演するという。
彼らの音楽はFMラジオでたまに流れてくるのを聴くくらいで、もう最近の曲は全く知らなかったが、
Mステでは「若者のすべて」を演奏するという。
一応、後で見ようと思って、珍しく録画予約をしておいた。
案の定、仕事が長引いて、本放送は見ることができなかった。遅れて数時間後、僕は録画しておいた彼らの姿を確認した。



山内はこんな感じで「若者のすべて」を歌うんだなあと思いながら、その歌唱を聴いた。
彼らしく歌っている箇所もあれば、志村を意識して歌っているところもある様に感じた。
そりゃそうだ、多くの曲を作り、ボーカルまでやっていたバンドを牽引する人間が亡くなったのだ。
全部、それらを無しにして、自分のオリジナリティ全開でというのは無理な話だ。
マニックスや、ニューオーダーの様に、バンドの支柱がいなくなり、それでも残されたメンバーで売れるというのを成し遂げたバンドは海外では幾つか思い出せるが、
なかなか日本では思い当たらない。
とんでもないプレッシャーと戦ってきたんだろうなあ、そんな気持ちで眺めていると、
突然バンドの演奏画面から切り替わり、亡くなった志村のオフショット(?)の様な映像が流れ出した。
あっ!と思う気持ちと同じくらいのタイミングで、聞き慣れたあの声が聴こえてきた。
そう、志村正彦が歌い始めたのだ。


すりむいたまま/僕はそっと歩き出して



確かにベタな演出だし、
僕の友人はこの演出に否定的だった。「死人を飯の種にしている」。
そうかもしれない。
でも、やはり僕はその「音」に強く胸を打たれた。
演奏前のタモリとの会話で「志村がMステに出たがっていた」というエピソードが語られていたが、
もしそうならば、どんな形であれ、それは叶えてあげてもバチは当たらないと思う。
ロックとは名ばかりのJ-popが幅を利かす世の中で、10代の僕が「本当のロックスター」だと思った男が、日本で一番有名な音楽番組で歌っている。
すごく胸をすく思いだった。



彼らにとって、色んなことがありすぎた10年間だったと思う。
今回のMステの演奏を見て、
志村と声を合わせて「若者のすべて」を歌った山内を見て、
すごく月並みな言い方だけど、
彼らは志村と一緒にバンドを今日まで続けていたんだと感じた。
そんなのは、この世に残った僕たちの勝手な感傷かもしれないけれど、僕は確かにそう思った。



久しぶりにフジファブリックを聴こう、そんな夜になった。
もちろん彼がいなくなってからのアルバムも。